太平洋戦争開戦日
言いたいことは山ほどあります。でも、先のNHK特集ですっぱ抜きましたね。お見事です。
誰が「対米開戦せよ」と言い出したのか?
”日本社会が”とか、”当時の雰囲気が”とかそんな頭の悪い評論家みたいな濁し方でごまかされるべきことではありません。
誰かが言い出したんですよ! 一個人が! その誰かとは誰??
いやいや、どちらも震源地ではありません。しかし大本営がかなり近い位置だということはわかります。では陸軍か?
それはあり得ません。当時の陸軍は中国大陸&シベリアを睨んでいました。太平洋なんて全く興味ありませんでしたから、もし陸軍の誰かがいいだしっぺだったら、対ソ連の戦争になっていたはずです。
すると海軍・・・・
でも海軍省から出てきたというのも考え難いですよね。あそこは純粋なお役所ですし、兵站系の将兵は対米戦争に反対の立場です。当時軍事作戦立案できるのは、(実質)海軍省ではなくて、連合艦隊司令部と軍令部です。
でも連合艦隊って発足したのは遅かったし米内・山本・井上がいたら戦争しようと言い出す人間はいないでしょう。
まあ
犯人がいたのは軍令部ですよ。ちなみに軍令部は海軍省とも命令系統が別で独断で何でもできちゃう機関なんですね。
これまで誰も恐ろしくて言い出せなかった人物
宮様
そうです。恐ろしくて口にできなかった人物。
”伏見宮殿下”です。殿下が軍令部総長に就任してしまったからもう誰も何も、軍令部に対して言えなくなってしまいました。
でも伏見宮殿下が最初から対米戦争を画策して回りくどいことしてきたのではありません。結果としてあまりにも重要な役割を果たしてしまいましたが。
あくまで、軍令部が”統帥権の独立”を完全に構築するための役割でした。
もう犯人はお解りでしょう。
永野修身です。
彼の心中は当時恐怖で一杯だったようです。
連合国の締め付けで石油が輸入できずに艦隊が動かせなくなる恐怖。権威が落ちて陸軍のクーデターが起きる恐怖。国が衰退する恐怖・・・
皇族をバックにつけてまで戦争を遂行しようとした永野修身の背景は、彼の思いこみによるものだったのでしょうか。
残念ながら、戦後、永野は巣鴨刑務所で病死してしまいました。その心中が語られることはありませんでした。
ちなみに、側近の記録によると、当時の昭和天皇は戦争に反対されていたようです。でもあまりに戦争やむなしと進言する連中が強硬に主張するので、とても不安になり、山本五十六を直接呼んで
「戦争やって本当に勝てるの?」
と聞いたのです。