ある青年の死を例にとってみると

アフガニスタンで、農業振興のために活躍していたある日本人青年が、テロリストに誘拐殺害されてしまいました。

彼は地元の人たちからも愛されており、私利私欲から離れた公のために働いてきた、志高い青年でした。

地元の人たちは彼の死を悲しみ、彼がこの土地で活躍してきた証に彼の名前を残すことにしました。彼の名前を岩に刻み込み、彼が異教徒にも係わらず、イスラム教の祈りを捧げたのです。


さて、ここからは”もしも?”の話です。


その事実を知ったある親族が、それ聞いて激怒しました。

「彼はイスラム教徒ではないし、日本には憲法九条があってテロや戦争とは無縁なはずだから、そんなお祈りは許さない!」

「即座に岩に刻んだ名前を削り取り、彼の魂がアフガニスタンから解放されるように、分祀しろ!」


そう言ったら、みなさんどう思います?


多分「気が狂っているとしか思えない!」そう思いますよね。現地の人は彼の活躍した証と思い、顕彰を称え、お祈りをしただけです。彼の遺骨を祀っているわけではありません。遺骨は日本で丁重に葬られているのです。


それと同じ事を、靖国神社で行っているのに、なぜ気が狂ったように喚いているのか、私にはさっぱり理解できません。

そもそも、A級戦犯なんてアメリカが勝手にハンコ押しただけの戦利品に過ぎません。日本人がどうあるべきかは、日本人が決めます。朝鮮人でも中国人でもありませんよ。



アフガニスタンで活躍された伊藤和也さんのご冥福をお祈りします。